【毛皮反対・殺処分反対・肉食反対】動物愛護デモに対する悪口に反論するサイト

他の命に無配慮 ねむれないさめという人間に騙されるな

動物愛護を進めるために、ねむれないさめのような人間も活用していきたいとは思っている。
しかし、自分は動物のために何の活動もしていないのに、ただただ人の活動に頭の悪い文句を付けるだけのこの人間に一応反論しておこう。 放っておいてもいいのだが、言論には言論で応じるべきかと思い、サイトを立ち上げた。
しかし、不思議だとは思わないか?
デモ批判の記事は複数あっても「屠殺される直前の動物にせめて水を飲ませてあげて欲しい」と訴えるような記事は見つからない。
ねむれないさめ自信、毛皮や畜産の問題を勉強していると言い、現状問題点もあると言う。
しかし、その問題点に言及はせず、何故か本来仲間であるはずのデモ活動を行う人間の批判に必死である。
ここから、このねむれないさめという人間の本質が伺える。
要するに、動物が苦しんでいる今の日本の現状は良くないと思ってはいるが、それを変える努力をする気はなく、自分の欲望のまま快適に過ごすことを欲しているに過ぎない。
理由は簡単だ。
「肉を食べたい」という欲望を優先しつつ、動物が搾取される現状を見るのが嫌だからだ。
自らが言う「残酷」な状態に立ち向かい改善しようとせず、毎日肉をむさぼり、「うちの○○ちゃんがショック受けたらどうすんのよ!」と騒ぐ。
どこからどう見ても、もはや見苦しいヒステリーなオバハンでしかない。
とはいえ、もしかしたら肉を食べていることで自分を納得させることができず、アニマルウェルフェア(動物福祉)に関して声を上げることが出来ないのかもしれない。
それであれば、無関心な人間よりはマシなんだろう。しかし、もし肉食の負い目があるため、非道な動物利用に対して声を上げられないでいるのであれば、 自分を奮い立たせて強くなり、家畜と呼ばれる動物たちのアニマルウェルフェアを訴えて欲しい。 そういう行動は、”肉食が諸悪の根源”と考える愛護家達からも、全否定されることはないだろう。少なくとも、私は全否定しない。

ねむれないさめは差別主義者

ねむれないさめにとっては、”動物の死<人間の心のショック”という価値観らしい。
つまり、動物がアニマルウェルフェアを考慮しない人間により大きな苦しみを与えられ殺されたとしても、その事実を人間が知って衝撃を受けることの方が、 かわいそうで重大な問題であるという。
そして忘れてはいけないのが、そのショックを受ける人間は、殺した動物の肉を喜んで食らうという点である。 こんな身勝手な考えに賛同出来るだろうか?
そして、この考え方の根幹にあるものが、”スピーシズム(種差別)”というものである。
人間以外の”生命”よりも、人間の”感情”を優先させるのは、人間以外の生き物の命を特段に軽く見ていることに他ならない。
それは道徳的・倫理的に善ではないため、反省し改めなければならない考え方であることに間違いはない。
種差別は何故いけないか。
それは当然、ある集団を差別することは悪だからだ。 たまたま今回の問題では”動物”という集合体を差別しているだけで、ターゲットが別の集団に遷移していくことは必然的である。
既に「肉食は動物に苦痛を与えていることをもう一度よく考えて欲しい。”ミートフリーマンデー”を実践することで、多くの命が救われるし、 環境にも良いので少しでも気を遣って欲しい」と呼びかけるデモの活動者に対し 「大嫌い
当然に、自身の行動に大きな矛盾点を抱えるねむれないさめは、「障害を持っている人間も、日本以外の国の人間も、差別してはいけないのですよ」と 子供対して偉そうに教育することは出来ないし、教育という行為自体が危険である。
子供が差別思想を植えつけられる可能性が高いことが悔やまれる。

グロ画像を見せるな?

ねむれないさめの文章を見て頂きたい。
”残酷”とは、何を指してそう言っているのだろうか?
パネルに写り込んだ人間に対し「残酷だ」と言っていると思いたい。 (無論、動物を蹴り飛ばす等の虐待行為を行っている人間が存在することは確かだが、屠殺を仕事としている人間のみを非難している訳ではない。)
しかし、どうやらそうではないらしい。
ねむれないさめが言う「残酷」な画像は、動物の体や血液などのことを言っているようだ。
パネルに写る心が張り裂けそうな見た目に変えられた動物は、そもそもは見ている者の時間を忘れさせる程に美しい姿をしていた。
それを、引き裂き切り刻み、ねむれないさめが言うところの「残酷な」状態にしたのは、他でもない”人間”だ。
動物たちが自らそんな姿に成り果てたのではない。
それを「残酷」と吐き捨てるのが、一体どれ程に非情なことであるか、わからないねむれないさめに強い怒りを感じる。
例えば人間が、交通事故等で体が損傷し死亡した状態で道路にあったとする。 それを見て、「グロいもん見せんな!」と言う人間がいたら、それは誰もが人格を疑うだろう。
日本人であれば、心を痛めその死体に向かって手を合わせるかもしれない。
赤い血、光を灯さない虚ろな目は、彼らが生きていた証だ。
赤い血を見て残酷だと思うのは、自分にも赤い血が流れているからだ。
ほとんど意識を失い、視点が定まらず生きている状態とはかけ離れた表情の目を直視出来ないのは、人間が苦しみ命た絶える時と同じだと想像できるからだ。
後に詳しく書くが、動物が植物と大きく違うところはそこにある。
また、屠殺場で働く人間は、毎日その「グロい」ものを見ている。
簡単に「グロい」や「気持ち悪い」と表現するが、その言葉の重大さを理解出来る賢明さはないようだ。

簡単にPTSDという病を口にするな

まずは、こちらをご覧頂こう。
次に、PTSDという病気の定義を確認する。
心的外傷後ストレス障害(PTSD・ICD10コード:F431)とは、『生死にかかわるような実際の危険にあったり、死傷の現場を目撃したりするなどの体験によって 強い恐怖を感じ、それが記憶に残ってこころの傷(トラウマ)となり、何度も思い出されて当時と同じような恐怖を感じ続けるという病気です。』 (引用出典 http://www.mhlw.go.jp/kokoro/speciality/detail_ptsd.html)
もう一つ違う定義も見ておこう。
『PTSD(心的外傷後ストレス障害Post-Traumatic Stress Disorder)とは、実際にまたは危うく死ぬ、深刻な怪我を負う、性的暴力など、 精神的衝撃を受けるトラウマ(心的外傷)体験に晒されたことで生じる、特徴的なストレス症状群のことをさします。』 (引用出展 http://www.jstss.org/topics/01/)
果たして、デモ行進という活動が、見る側にとって生命に重大な危機を感じるような体験となり得るのか?
そうではないことは明白であるが、素人が判断するだけでは説得力に欠けるため、デモの事例について、現役の精神科医(いずれも精神保健指定医)3名に質問してみた。
回答は、「その事例について(デモで動物が殺害された写真を掲げること)は、PTDSの原因とはなり得るようなものではない」とのことだった。
結果として、PTSDからは外れるということである。
つまりはこういうことだ。
ねむれないさめは、PTSDという病気を、自分の主張を通すために利用した。
PTSDという病気を引き合いに出し、”動物の命が奪われる”ということに対抗するために、”デモだって人間を自殺させるかもしれない危険なもの”として、 事を大げさにしたいという狙いが見え見えだ。 自分が見たくないということ正当化するために、病気に対する理解を深めることもなく、軽々しく自分の都合の良い様に使うような人間だということだ。

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